必読、川崎泰雅の軌跡と告白。【前編】 ~リコタイ番記者、最後のインタビュー~

Pocket

  

リーグ戦で3年連続のベストナイン、リーグ通算47盗塁で二度の盗塁王。代表チームでも不動の「1番・センター」としてアジアでの戴冠に大きく貢献し、川崎は名実ともに立教の、そしてリコタイの歴史に残るスピードスターとなった。
いまリコタイでの濃密な3年間を終え、ここまで走り抜けてきた自らの野球人生をどのように振り返るのか。「小池さんの最後の記事が自分なんかでいいんですか(笑)」とおどけながら、川崎はインタビューの席についた。

 

空手少年、小5にして野球に出会う  

姉と妹、3人きょうだいの真ん中。豊かな自然あふれる埼玉県嵐山町で育った川崎泰雅が野球を始めたのは、一般的な野球少年と比べれば少し遅い小学5年生になってからだった。
「野球を始めるまでは、空手をやっていました。礼儀作法を身に付けさせたいっていう親の方針で… 黙って人の話を聞くとかが苦手で、落ち着きがない子どもだったんですよね」。当然、自分の意思ではじめたスポーツでなければやる気は出ず「練習に行く前は毎回トイレに籠ったりもしていました(笑)」という。しかし川崎は、この武道を通して今後の人生において核となる価値観を手に入れることになる。「空手は嫌々やらされてはいたんですけど、大会で優勝したりする中で応援してくれるお母さんのために頑張っていたところもあって。自分だけじゃなくて他の人のために頑張る喜びみたいなことを知ったのは今にも大きく影響してますし、そういう意味では、今思えば空手をやっていてよかったなと思います」。

 

写真左・幼少期に空手で武道の精神を培った

 

今でこそ走攻守にわたり常人離れした野球センスを見せる川崎だが、野球に出会ったきっかけは極めて”ふつう”だ。「小学校の体育館を使って空手の練習をしていたんですけど、グランドで少年野球をやっているのが見えて。あと、ちょうどその頃アニメのメジャーとWBCを見ていたのもあって、やはり空手は個人戦なのでチームスポーツがまぶしく見えたんだと思います」。

こうして道着に換わりユニフォームに袖を通した川崎は、肩の良さを買われて外野手としてキャリアを始めた。「ピッチャーをやったこともあったんですけど、コントロールがよくなくて(笑)」中学では埼玉の強豪・熊谷シニアに入団。同期から4人のチームメイトが後に甲子園に出場する名門チームで生き残っていくための方法は、とにかく守備の道を極めることだった。

「中学ではいわゆる”ライパチ”でした。試合終盤で代打を出されることもありましたし、本当に上手いプレイヤーばかりで自分が勝てるのは守備しかなかったんです」。レギュラーポジションこそ確保したものの、中学野球での手ごたえは決して大きいものではなかった。元プロの監督の太いパイプを活かして野球推薦で高校を選ぶ道もあったが、「やっぱり自分が埼玉栄とか浦和学院で活躍するイメージは湧かなくて」。
野球部監督の瀧島達也さんからの熱心な勧誘もあり、次なるステージとして公立の埼玉県立松山高校を選ぶことになった。