必読、川崎泰雅の軌跡と告白。【前編】 ~リコタイ番記者、最後のインタビュー~
松山高時代の苦悩、そして埼玉ベスト4へ
松山高校入学直前の体験練習。川崎の肩を見初めた瀧島監督は、ブルペンに入るよう指示をした。投手としての適性を確認する目的だったはずだが、立場はピカピカの新入生。良いところを見せようと力まない方が難しいシチュエーションだろう、「気合い入れちゃった」結果、肩を壊してしまう。
アピールを続けたい一心で肩の負傷をごまかしながらプレイを続けていたが、夏の甲子園予選では当然のようにメンバー外に。これを機に負傷と正面から向き合うことを決め、夏休みは川越の病院に通いながらノースロー調整の日々を送った。結果的に、この不遇の時期が「守備の人」だった川崎に新たな武器を磨く時間を与えることとなる。部員の間で「鳥かご」と呼ばれていたバッティングゲージに籠り、ひたすら打ち込みを続けたのである。
ついに肩の傷も癒え、更に打撃への自信も深めた川崎は2年の春からAチームに帯同するようになった。厚い選手層を前に2年の夏も公式戦の出場はかなわなかったが、最高学年として迎えた新チームでは「4番・センター」として絶対的な存在になることを期待されていた。
しかしここでも川崎はチャンスを活かすことができなかった。「4番のプレッシャーに負けてしまって」調子を上げることができず、結局秋の大会で監督から手渡された背番号は控えを表す16番。殻を破りきれない川崎に対して瀧島監督は「お前は本当はこの背番号じゃないだろ。しっかりしろよ」と言い放った。
迎えた秋の大会初戦。先発を外れていた川崎に思わぬ形でチャンスが巡ってきた。センターで出場していた選手が好機で簡単にファウルフライを打ち上げてしまい、懲罰交代の形でベンチに下げられてしまったのである。直後の守備から出場した川崎はこの試合の初打席でタイムリーヒットを放ったのを機に、スタメンの座を取り戻した。
ここで少し意外な事実なのは、2年の春以降は川崎は5番打者として固定されたこと。リコタイでの川崎を知っている人にとっては俊足を生かした1番打者のイメージが強いが、そもそも「高校時代は盗塁は全然していなかった」という。「監督があまり盗塁のサインを出さないタイプというのもありましたけど、盗塁への意識は高くはなかったですね」と振り返る。
川崎は自身の5番起用についてこう説明を加えた。「1つ上が21世紀枠の一歩手前まで行ったこともあり、自分たちは監督や部長さんに”最弱の代”と言われてきました。ただ、突出した存在がいない分チームで勝とうという意識も強くて、(長距離打者ではない)自分の5番もそういう『繋ぐ』打線を象徴していたんだと思います」。
そしてチームの目論見通り、『5番センター・川崎泰雅』は夏の埼玉大会で目覚ましい活躍を見せることになる。